白い少年

 少年は梅雨が明けたころに転入してきた。

 季節外れの転入は珍しいことではない。理由は様々だ。
 プライバシーの問題があるので保護者に直接は聞けないが、面談の時に世間話を装い聞き出すのがうまい教師がいる。
 私にはとてもまねできないが、そんな同僚から情報が入ってくる。

 よくあるのは親の転勤だ。なぜか新年度が始まってから辞令を出す企業がある。それが普通なのかは教師しかしたことがない私にはわからない。

 家を買ったから引っ越してきた、というのもある。順調な人生を歩んでいるのだろう。担任としては喜ばしいかぎりだ。およそ家庭環境というものは子供の成長に大いに影響する。家計の問題だけではない。夫婦仲が悪くなると、てきめんに生徒の成績が落ちる。

 これは保護者から直接聞いたのだが、母親の国内留学に子供だけついてきた、というのもあった。よほど父親は頼りにならないのだろう。私も以前はそうだったが。

 まれに夫のDVから逃れて、というのがある。この場合はいろいろやることがある。一番目は職員にかん口令をしくことだ。

 以前勤務していた学校で問題が起こったことがある。夫が図書館の職員を装い、電話してきたのだ。
「おたくの生徒さんが借りた本を帰さない。請求したいので自宅の電話番号を教えてくれ」
 まだ事情を知らなかった事務職員が教えてしまった。今ほどプライバシーにうるさくない時代だった。

 そんなことを思い出しながら、応接室のドアを開けた。



 少年をはさんで親子三人で、転出入担当の職員と向かいあって座っていた。私の姿を見ると両親が軽く頭を下げたので、こちらも返礼する。

 両親そろってというのは珍しい。たいがいは母親が付き添ってくる。父親の職業が時間の融通がきくものなのか、まだ勤務に入っていないかだろう。

 担当教諭から双方の紹介があったあと、私から時間割などの学級独自の書類を渡した。それ以外の学校全体にかかわる書類は、担当教諭からすでに渡されているはずだ。

「きょうは授業はどうしますか」
 ひととおり学校や学級の様子を、世間話をまじえて話したあとに尋ねた。
 一日目はそのまま帰ることが多い。とりあえず学校の様子を見て、心の準備をしてからということだろう。

 両親が左右から少年の顔をのぞき込むと、
「きょうからお願いします」
 わずかに笑みを浮かべながら落ち着いて答えた。はじめから答えは決まっていたようだ。

 大人びた表情で、私の顔をじっと見つめる。何か意味のある視線に思えた。どこかで会っただろうか。記憶をたどるが、思いあたらない。

 その時初めてじっくりと少年の顔を見たのだが、異様に色白なのに気づいた。ひょっとしたら外出したことが一度もないのではないか、とすら思えた。

「ああ、この子の色が白いのは病気なんです」
 私の疑問を察したのか、母親が教えてくれた。



 教室に近づくと、うわさを聞きつけた何人かが、入口から顔を出してこちらをうかがっている。私の顔を見つけると「来た」と小さく叫んでさっと引っ込んだ。

 黒板の前に立った少年のほおは、ろうのように透きとおっていた。
 教室がざわめいた。美貌に見とれる者、羨望のまなざしを向ける者。
 少年は級友になるべき者たちを悠然と見回した。眼力とでもいうのだろうか、少年の視線に触れた者は、みな一様に口を閉じた。

「………です。よろしく」
 まだ声変わり前なのだろう。女の子のように高い声だった。

 自己紹介をすませ自分の席に着くまで、教室はしんと静まり返っていた。まるで催眠術にかかったように。いや、実際にかかっていたのかもしれない。

 ホームルームが終わると、おませな女子がさっそく少年を取り囲んだ。それを男子が遠巻きに眺めている。ありがちな光景だが、私はなぜか居心地の悪さを感じていた。

 窓からは夏を予感させる日差しが差し込んでいるが、季節が逆戻りしたようにうすら寒い。いつもはうるさい生徒たちが、なぜか静かにしている。

 こうして、私の長い夏が始まった。



 空き時間に花壇の花に水をやっていると、校庭の隅に少年の姿があった。体育着を着て、体育倉庫の影に座っている。

「あの子、また見学してますね」
 保健室の校庭側の扉から養護教諭が顔を出した。小柄で温和な女性で、生徒から人気がある。この人が赴任してから保健室に入り浸る生徒が増え、一部の教師の間で問題になったほどだ。

 その問題は、全校生徒に「用もないのに保健室に行かないように」と釘を刺すことで一応の決着を見たが、今でも彼女に批判的な教師が何人かいる。いわく生徒に甘すぎるということらしい。

「確か日光アレルギーでしたっけ」
 転入初日に保護者から説明されて、少し驚いたことを思い出した。初めて聞く病名だった。
「ええ、珍しい病気ですよね」
 養護教諭はサンダルをつっかけながら、
「彼の場合は日焼け止めを塗っておけば短時間なら大丈夫らしいですけど」

 色が白いのはそのせいなのだろうか。私は再度少年を見た。体育座りで、まるで彫像のように動かない。

「きれいに咲きましたね」
 養護教諭が花壇の横にしゃがんで大きく息を吸い込んだ。
「ええ、おかげさまで」
 彼女が時々水をやってくれていることを私は知っていた。

「あの子、体に触られることを嫌がるんですよ」
 彼女の表情が陰った。
「身体測定の時、聴診器を当てようとしたら手を払いのけられちゃったんです」

 そんなことがあったとは知らなかった。思春期の男子なら女性に触れられるのに抵抗があるのかもしれない。
「体に傷はないので虐待……ではないと思うんですけど」
 なるほど、そっちの心配をしていたのか。

 両親の顔を思い浮かべたが、そんなことをするようには思えなかった。もっとも人は見かけによらないが。

 ホイッスルが響き、生徒たちが体育教師のもとへ集まりだした。少年もゆっくりと立ち上がった。
「家庭訪問の時に保護者にちょっと鎌をかけてみましょう」
「お願いします」



 昼休み、弁当を食べ終えてふたをしようとしたとき、受け持ちの女子数人が駆け込んできた。
「先生、けんか! すぐ来てください」
 私は教え子のあとを追って、現場へと向かった。

「誰がやってるんだ?」
 走りながら訊いた。
「Kと転校生です」
 Kはクラスの男子だ。

 私は後悔した。
 一部の女子が、やたらに少年にまとわりついているのを何度も見ていた。それを複雑な心境で見ている男子が多いことも知っていた。指導しなければとは思っていたのだが……。

 着いたときにはけんかは終わっていた。周りの者が止めてくれたらしい。
 人だかりの中に、あの少年とKが対峙している。

 Kはこぶしに怪我をしたのか、ほかの男子がハンカチを巻いてやっていた。ハンカチには血がにじんでいる。
 少し離れたところに女子の小集団があり、中心で女子Sが泣いていた。

「K君が転校生を殴ったんです」
 私を呼びに来た女子の一人が説明してくれた。
「Sさんのことで、もめちゃったらしくて……」

 私はもう一度二人を見た。殴ったKが顔を引きつらせているのに対して、少年は能面のようであった。呆然としているように見えなくもない。

「手はどうした?」
 Kはうつむいたまま答えた。
「殴ったときに切れました」
「先に保健室で看てもらおうか?」
「あとでいいです」
「そうか。じゃあ二人ともついてきなさい。Sも来なさい」
 私は彼らを引き連れて生徒指導室へ向かった。

 この静かな学園で指導室を本来の目的で使うときが来るとは思わなかった。ましてや転校したての少年が騒動の当事者になろうとは。いや、心のどこかで予感していたのではなかったか。

 Sは職員室に待たせておいて、まず男子二人に話を聞いた。
 事の成り行きは単純だった。KのカノジョのSに少年が手を出したというのだ。

「つまり痴話げんかってわけか」
 皮肉ではなく、場を和ませるつもりだった。

「違う!」
 Kはむきになった。
「そいつがSに無理やり……」
「無理やり?」
「その……キ、キスをしようと……」

「そうなのか?」
 私は少年の顔を見た。
「そうです」
 少年はあっさりと認めた。

 ありきたりの注意をしたあと(三角関係のもつれなど私には無理だ)、二人を帰すことにした。出口で握手をさせようとしたが、Kは頑として拒否し、足早に立ち去った。
 それを見て少年は肩をすくめた。

 Sからも話を聞いた。
「わたしがいけないんです」
 また泣きそうになった。
「わたしがあの子に声をかけたからK君が怒っちゃって……」
 Sのほうからアプローチしたことが、Kをさらに怒らせたのだろう。

「キスされそうになった?」
「……はい……」
「無理やり?」
「いいえ!」
 Sは顔を上げた。

「K君がそう言ったんですか?」
「いや、単なる想像だ」
 いくぶんKに同情的だった私は嘘をついた。

「あの子から顔を近づけてきたのは事実です。わたし、そこまでする気はなかったんですけど、なぜか体が動かなくて……」
 そこへ物陰から様子をうかがっていたKが乱入したわけだ。

 事情がわかったのでSも帰すことにした。
「あんまりカレシを心配させるなよ」
 立ち上がったSに冗談ぽく言った。おじさんの冗談が通じるかひやひやしながら。

「大丈夫、もうあの子には近づきません」
 笑いながら答えてくれた。わたしはほっとした。
「て言うか」
 真顔になって、
「近づけません。近くで話してわかったんだけど、なんかあの子、怖いんです」



 次の日からKは欠席した。家からの電話では熱が出たらしいが、生徒間のうわさでは失恋のショックというのがもっぱらだった。

 どちらにせよ、二三日で登校してくると思ったが違った。一週間が過ぎて少々心配になったので、様子を見にいくことにした。



 Kはやつれていた。熱が出たというのは本当らしい。いったん熱は下がったが、どうにも体に力が入らないのだという。

「傷口からばい菌が入ったんじゃないのか。医者は何と言っていた?」
 パジャマ姿でベッドに座り、ぼんやりと床を見つめながらKは口を開いた。
「特に問題ないそうです」

 私は彼の手に巻かれた包帯が気になった。あれから十日以上がたつ。若者ならとっくに治っているのではないか。

「傷を見せてくれないか」
 Kはゆっくり包帯をほどいた。傷口はふさがっていたが、薬指のつけ根がお岩さんのようにはれ上がっていた。

「これは……」
 私は一瞬言葉を失った。
「本当に感染症じゃないのか?」

 Kは黙って包帯を巻きなおした。巻き終わると、
「あいつ、おかしいですよ」
 初めて私の目を見て言った。

「俺が殴ったとき、あいつの唇が切れたんです。パクっと」
 私はあの時のことを思い返してみたが、少年の唇の様子は記憶になかった。怪我をしていれば覚えているはずだが。
「それなのに血が一滴も出なかった。一滴も……」

 私はSの言葉を思い出していた。
「あの子、怖いんです」と彼女は言った。

「怖い?」
 怪訝そうな私に彼女は説明した。
「小さいころ、動物園でトラをまじかで見たことがあるんだけど、なんかトラの目に吸い込まれそうになって、動けなくなっちゃったんです」

 遠くを見るような目つきで、
「あの子の目を見たときにも、同じ感じになっちゃって……。それに、あの子の目、赤く光ったんです。一瞬だったので気のせいかもしれないけど……」



 そのあともKは休み続け、結局一学期の終わりに母親が休学を申し出てきた。

 母親は今回の件にしきりに不満を漏らしていた。
「確かに手を出したのはうちの子ですけど……」
 原因を作ったのは相手のほうだと言いたいのだろう。

 体調が戻ったら夏休みにでも補習をします、留年は何とか避けましょうとなだめて帰ってもらった。

 本当に体調が悪いのだろうか。Sは少年が怖いと言った。Kも少年を恐れているのではないか。そういえば、あれほど少年につきまとっていた女子たちの姿を、今ではまったく見かけなくなった。



 保健室に行った。具合が悪いわけでも、養護教諭の顔が見たいわけでもない。少年について聞きたいことがあった。

「身体測定の結果ですか?」

 一般的に身体測定をするのは医師の役目だ。学校ごとに担当医がいて(たいがいは学校に一番近い病院の院長だ)、定期的に学校に来てもらい、身体測定を実施する。

 前の学校でおそらく身体測定はすんでいるから、待っていれば指導要録(成績や生活の記録)の写しとともに、健康診断票が送ってくるはずであった。それがなかなか来ない。

 しかたないので、彼女がとりあえずやっておいたというわけだ。少年の色の白さに不安を覚えたというのもある。

 身体測定は体のサイズを測るだけではなく、肌の色つやなどから健康状態を調べる目的もある。最近は傷の有無も大事なチェックポイントだ。

 少年に何か尋常でない点があれば、養護教諭なら何か気づいているのではないかと考えた。

「別に問題はなかったですよ。身長も体重も基準値以内でしたし、脊弯(せきわん、背骨の湾曲)もなかったですし……ただ」
「ただ?」
「この前も話しましたけど聴診はいやみたいでした」

 少年の身になって考えてみた。思春期である。女性に体を触られるのは抵抗があって当然だろう。ほとんどの医者は男だから、女性に聴診器を当てられたのは初めてではないだろうか。

 だが、手を払いのけるというのはいささか常軌を逸している。

「それより先生、ご存知ですか?」
 いきなりの逆質問にいささか面食らった。
「体育のT先生があの子のことを極端に嫌っているみたいですよ」

 T教諭は体育担当だけに筋肉質で、おまけに二枚目である。いい意味で体育会系のきびしさとさわやかさをあわせ持ち、女子だけでなく男子にも人気がある。
 あの先生が生徒をえこひいきする様子は想像できなかった。

「やっぱり見学ばっかりされると、いろいろ考えちゃうんでしょうかねぇ」
 彼も少年の病気のことは知っているはずだが。
「しょっちゅう体育教官室に呼び出されて、長いことお説教されているみたいですよ」

「教官室からあの子の嗚咽が聞こえたという生徒もいるんです。まさか体罰はないと思うんですけど、ことばでの暴力というのもありますからね」
「このことは校長には?」
「いいえ、まだです。T先生も若いですし、経歴に傷がつく前に気づいてくれるといいんですけど」

 考え込んでしまった。
 若いころから「先生、先生」とちやほやされるので、教師というのはプライドが異様に高い。だから平教師間での注意というのはとても難しい。というより成功したという話を聞かない。かといって校長を間に通すと、へたすると密告屋の汚名を着る羽目になる。

「うーん」
 私が困っていると、
「わたしのほうからそれとなく話してみましょうか」
 助け舟を出してくれた。
「それは助かります」
 担任でないほうが、いくぶん傷は浅くなるだろう。だが、彼女の考えは違った。
「わたしはこれ以上嫌われようがありませんから」

 だが、その必要はなくなった。T教諭が行方不明になったのだ。



 T教諭が無断欠勤した。無断どころか病気欠勤さえしたことがない人だった。過去に休んだのは親御さんが亡くなったときだけである。

 まじめなT先生にしてはおかしいと考えた教頭が、彼の住むマンションに電話し、管理人に部屋まで行ってもらった。部屋には誰もいなかった。

 実家も含め、彼の行きそうなところはすべて問い合わせたが、見つからなかった。校長と協議した結果、警察に届けることになった。

 警察の対応は、「交通渋滞に引っかかってるんじゃないの」だった。彼は徒歩通勤だった。「それじゃあ交通事故って可能性もありますね。消防に出動がないか聞いてみます。それがなければ市内の病院を当ってみます」

 二日後に学校に刑事が来た。まず校長・教頭が状況を聞かれた。教師も一人ずつ事情聴取を受けた。私の番になり、応接室に入った。予想どおりの目つきをした人物が待っていた。

 刑事に会うのはこれで三度目だ。一度目は学生のころ、下宿先に泥棒が入ったとき。やってきたのは丸刈りのいかつい男で、まるでやくざのよう。不愛想でこちらが容疑者のような扱いを受けた。今思えば内部犯行を疑っていたのだろう。

 二度目は生徒が車上狙いをやったとき。取り調べを受けていったんは帰されたのだが、後日、保護者同伴で出頭し、説諭を受けることになった。担任として同席したのだが、その時の角刈りの刑事は、我々大人に対しても愛想笑いの一つもしなかった。彼にとっては子供が犯罪に進むのを止められなかった我々も同罪なのであろう。

 かくして私の中での刑事のイメージは、「不愛想で目つきが鋭い」となったわけであるが、今目の前にいる人物がまさにそれであった。これはおそらく職業病であろう。私も気をつけなければ。

 刑事はGと名乗った。相撲取りにもなれそうながっちりした体形で、頭は角刈り。きっと犯人に髪の毛を引っぱられないようにであろう。あごは幅広く、顔全体が将棋の駒を連想させた。

 私とT教諭の接点を根掘り葉掘り聞かれたが、そんなものはほとんどなかった。私は理科、彼は体育と担当が違うし、教官室も離れている。一日中会話を交わさないことが何度もあった。

 意外だったのはKとの関係を聞かれたことだ。さすがによく調べてある。Kが休んでいるのはTに原因があるのではないかと遠回しに聞かれた。もちろんそんなことはない。体育の授業を見たわけではないが、何かあればクラスのおしゃべりな女子が教えてくれるはずである。

 少年のことを話そうか迷ったが、まだ早いと結論づけた。その前に確認したいことがある。

「あなたはほかの先生と雰囲気が違いますね」
 聴取が終わって席を立ったとき、Gが言った。
「なんというか、先生らしくないというか……。あ、失礼。気にしないでください」
 刑事の勘はなかなかのものだ。



 T教諭の失踪から一週間がたつ。ざわついていた生徒たちも落ち着いてきた。生徒(主に女子)の噂ではT先生は駆け落ちしたのだそうだ。東北の旅館で二人して働いて、貧しいながらも幸せに暮らしているらしい。なんかどっかのメロドラマみたいだが、駆け落ちの相手は誰なんだ?

 体育の授業は当分担任がやることになった。素人なので、ほとんどドッジボールやサッカーだ。黙って見ているだけで生徒が勝手にやってくれる。楽なものだ。

 男子は大喜びだが、それを横目に見て、女子は不満そうだ。何しろ女子の体育担当教諭は健在なもので。

 そんな様子を見ながら、一人ぐらいいなくても何とかなるもんだなあと感慨深かった。この前まで心配していたのに、今はT教諭の話題さえ出ない。
「人情紙のごとし、か」
 私がいなくなっても同じなのだろうか。

 いや、消え去った者を忘れない者もいる。いつまでも絶対に……。



 人の気配で顔を上げた。
 期末テストの採点をしていたら、すっかり遅くなって、理科準備室の中は薄暗かった。

 入口に少年が立っていた。暗さの中に白い顔が浮き立つ。
「どうした?」

 少年は滑るように近づいてきた。
「僕のところにも刑事が来たよ」

 かすかに笑っていた。ごく近しい者に向ける親しげな笑い。妖しい笑い。
「T先生は優しい先生だったって答えたよ」
 幼い子がいたずらを告白するような無邪気な笑顔。

 そう、彼は優しかった。正しい答えだ。だったらなぜそんな言い方をする?

「僕のことをとてもかわいがってくれたよ。愛してくれたよ」

 私は生つばを飲み込んだ。心臓が早鐘を打つようだった。

「何度も僕を抱いてくれたよ。何度も愛し合ったよ」

 少年は私の膝にまたがり、肩に手を置いた。
「Tはどこにいる」
 私の声はかすれていた。

「食べちゃった!」
 ひときわ高い声で笑うように言い放った。

「おいしかったよ。先生はどんな味かなぁ」

 少年の目が赤く光った。聞くところによると、人間にはわからない速さで、モールス信号のように点滅しているらしい。この信号を目から受け取った人間は、脳が麻痺して動けなくなる。

 少年は両手で私の顔をはさみ、口づけしてきた。私も少年の背中に腕をまわした。首筋に少年の牙を感じた。だがその牙が私の体につき立つことはなかった。

 驚いたように少年は飛びのいた。その胸には細身のナイフが突き刺さっていた。私の仲間がふざけてオリハルコンと呼ぶものだ。

 銀でできているわけではない。数種類の金属を使った合金で、ある特定の硬度に仕上げてある。硬すぎても柔らかすぎてもだめらしい。

「どう……して……」
 ナイフをつかみ、少年は苦し気に顔をゆがめる。先ほどまでの端正さはない。

「これが私の仕事だから」
 私はゆっくり立ち上がった。

「それともこっちのほうかな」
 目からコンタクトレンズを外して見せてやった。
「便利な世の中でね。赤い色だけブロックできるんだ」

「がああ」
 少年の顔が鬼に変わった。必死でナイフを抜こうとしている。だが手遅れだった。

 ひとしきり暴れたあと、ぴたりと動かなくなった。少年は石に変わり、次に砂に変わり、最後は塵になって崩れ落ちた。

 あとに残ったナイフを拾い、懐に入れた。
 不思議なものだ。彼らは死ぬと服ごと塵に帰る。我々が見ている姿と実体は違うのかもしれない。

 少年は両親とともに学校に来た。ならば両親も少年の同類の可能性が大きい。
「採点が終わっていてよかった」
 今から季節外れの家庭訪問だ。いそがしい夏になりそうだ。

 私はすっかり暗くなった廊下へと足を踏み出した。

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